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雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

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雑草とは何だ/その1/雑草と昭和天皇1

「雑草という名の草はない」という言葉がある。ある日、皇居内の雑草があまりにも見苦しいと考えた侍従達は、気を利かせて草刈りをしたそうだ。静養先から戻られた陛下にその旨を申し上げたところ、先のお言葉を強めの語気でおっしゃられたそうだ。それは「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」と続き、「人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」と結ばれる。この話は侍従長だった人が書いた本に載っているようだが、音声が残っているわけではないし、いわゆる回顧録であるから、これが当時の正確な再現であるかどうかは定かではない。まあ大意は合っているだろうと思うので、これを「雑草」を考えるテクストの一つとして採用したい。特に他意があるわけではない。天皇の私的な発言をあげつらったり、また逆にこの世の真理の一端を語っているかのように持ち上げたりするつもりもない。「祭祀者」としての天皇の視点は「雑草」を考える際の材料の一つであるということだ。

最初の方の「雑草〜」や「どんな〜」は単に植物学の分類と生態学的な事実を指摘しているのに過ぎない。こんな当たり前のことは「雑草」を考える上で何の参考にもならないように思えるが、そうではない。検索すると、その当たり前の部分に「気づかされた」という記述がブログなどに多数見受けられる。当人たちの不勉強もあるが、それが世間一般の「雑草」に対するイメージを代弁しているようにも思える。

最後の「人間の〜」の部分である。ここからは宗教の世界観に裏打ちされた話であり、神道の倫理観に基づいた戒めだ。この部分が単に個人的な意見である可能性はあるが、「人間の」で始まっていることから宗教的な背景を伴っているのは明らかだろう。全体を通して考えると神道には「雑草」という言葉も概念もないということだ。つまり自然界に存在するものに対して区別(神山、神木など)をする事はあるが、差別はしないということである。それが自然に対する神道の姿勢なのである。

最初に昭和天皇の話を取り上げたのは神道が「雑草」を語る上で外せない事柄だからである。それは日本に連綿と続く自然に対する崇拝の記録でもあり、日本人の思想形成にも強く関係していると考えているからだ。

写真:zassouneko
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