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雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

ニラ/今は人気者、でも昔は嫌われ者

ニラ(韮)/ヒガンバナ科/ネギ属 在来種 多年草 花期8〜9月 別名:フタモジ、ミラ、コミラ

餃子に欠かせない、ニラ玉もいける、ニラレバ定食も捨て難い。そんな「ニラ」の歴史を探ってみる。「古事記」「日本書紀」では「ニラ」は「コミラ」、「万葉集」では「ミラ」とされている。また、200年ほど後の「本草和名/深江輔仁(918年」、「倭名類聚抄/源順(934年)には「韮」は「和名古美良(コミラ)」というとある。これは「古事記」「日本書紀」と同じである。「ニラ」は昔からあったが今とは名前が違うのだ。

さて、ここからが面白い。冒頭の3つの書物以降、「ニラ」は古典文学から消えてしまうのだ。「古今集」「新古今和歌集」「枕草子」「源氏物語」「今昔物語」にも出てこない。江戸時代の「奥の細道」にもいないのである。清少納言あたりが「臭い!」と文句をつけそうな気がするのだが取り上げていないのである。今ではポピュラーな「ニラ」であるが、昔は無視されていたようだ。「古事記」「日本書紀」でも、ただの「臭い草」扱いである(神武天皇/東征)。10世紀の書物に「古美良(コミラ)」=「いにしえの、うつくしい、よし」と書いてあっても褒めているわけではない。漢字はただの発音記号である。

公園の脇に咲く「ニラ」

ここで少し戻って「万葉集」の「ニラ」の歌を紹介する。14巻の3444に「伎波都久(きはつく)の岡の莖韮(くくみら)われ摘めど籠(こ)にも満たなふ背なと摘まさね」とある。これを現代語にすると「私は『きはつく(地名)の丘』でニラを摘んでいるのだが、なかなか籠がいっぱいにならない、困ったな」「じゃあ恋人に手伝ってもらったらいいのに(隠しているのは知ってるぞ)」となる(注意:意訳です)。後半の「恋人に〜」は別の人の合いの手が入るのである。そんな和歌もあるんだな。初めて知った。それはともかく、原文に「莖韮」とある。おそらく「茎韮」だろうが、そうなるとこの人は花のついた(蕾かもしれんが)茎の部分を摘んでいるのである。葉っぱではないのだ。そりゃ、いつまでたっても籠はいっぱいにならんわな。

では、何のために「茎韮」を摘んでいたのだろうか。その理由は残念ながら私には分からない。だが、葉っぱを収穫しないということは、その部分は食用ではなかったのだろう。 なぜ食べなかったかというと「葷酒山門に入るを許さず」の影響があったのではと考える。今、急に思いついただけなので強引な説ではあるが。これは「飲酒」や「ニンニク」「ラッキョウ」などの匂いをさせている者が寺へ入ることを禁止しているのである。これを守れない者は不心得者となるが、今に残るような古典文学を書く人のほとんどは庶民ではなく上流階級に属している。だから、こっそりと食べてはいたのだろうが公言することを控えていたのではないだろうか。自ら規律違反を申告するはずがない。信仰心を疑われるだろう。だから古典には現れてこないのだ。昔の人は信心深いのである。いつから「葷酒山門」が始まったのか確認できなかったのが、この説の弱点であるが。

意外なことに「ニラ」が現在のように普及したのは第二次大戦後のことだという(跡見女子学園大学/跡見群芳譜より)。人々が「葷酒山門」の教えを守っていたせいなのかは分からないが、「ニラ」は今では道端でもよく見かけるぐらいに普及している。

写真:zassouneko
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