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雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

ムシトリナデシコ/「大和撫子」は実在するのか?

ムシトリナデシコ(虫取り撫子)/ナデシコ科/マンテマ属
ヨーロッパ原産の帰化植物 1年または2年草 花期は5〜6月 別名はハエトリナデシコ、コマチソウ

幕末頃に観賞用として渡来。「ナデシコ」は「撫でたくなるような可愛い子供」の意味です(イヌコモチナデシコ/2015.5.25記事参照)。また「ムシトリ」とは、この植物の茎の上部にある葉の付け根あたりから粘液を分泌し、それに虫がくっ付いてしまうことから名付けられた名前です。アリなどの昆虫が下から登ってくるのを粘液で防いでいるのです。アリのような虫は蝶と違って受粉の役に立ちません。つまり粘液のバリアが蜜だけを盗んでいくような虫の侵入を阻んでいるのです。
「カワラナデシコ」無料画像サイトより

「ナデシコ」は女子サッカーの愛称でも有名ですが、「ナデシコ」という名の花はありません。「サクラ」という名の木がないのと同じで、これは一般的な総称です。つまり「〜ナデシコ」「〜ザクラ」のように使います。私たちが「ナデシコ」と呼んでいるのはカワラナデシコ(上の写真)」を指します。ですから「ナデシコ ジャパン」の「ナデシコ」は「カワラナデシコ」です。また「ヤマトナデシコ(大和撫子)」という言葉をよく耳にしますが、そんな花が実際にあるのでしょうか。実はあるのです。

 清少納言の「枕草子(1000年頃)に、「草の花は、なでしこ。から(唐)のはさら(更)なり、やまと(大和)のもいとめでたし」とあります。意訳すると「ナデシコは素敵ですわ、特に唐から渡ってきたものが。でも日本のものも負けてはいませんわ」というところでしょうか。これは上司にあたる女性から「あなた、どんな花がお好き?(意訳)」と尋ねられた際の清少納言の返答です。返答はこれだけで終わらず、この後にもたくさんの花の名前を挙げています。植物の知識が豊富で、しっかりとした美意識を持っていたのがわかります。

この話から平安時代に「唐から来たナデシコ」が話題になっていたことがわかります。その「ナデシコ」が有名になると、日本のものとの区別が必要になってきます。姿形が違う2つの花を「ナデシコ」と同じ名前で呼ぶのは差し障りがあります。日本の「ナデシコ」を歌に詠んでも、受け手の方はどちらの「ナデシコ」のことなのか分かりません。そこで唐から来たものは「カラナデシコ」、日本のものを「ヤマトナデシコ」としました。つまり「ヤマトナデシコ=カワラナデシコ」です。ついでに「カラナデシコ」を探してみましたが、なぜか見当たりません。日本に帰化できなかったのでしょうか?
調べてみると「カラナデシコ」は今では「セキチク(石竹/ナデシコ科/ナデシコ属)」と名乗っていました。では「カラナデシコ」の名はどうして消えてしまったのでしょうか。推測してみましょう。「カラナデシコ」は唐から来ましたが、その当時は名前がわかりませんでした。なので日本のものと区別するために「カラ」を付けていたわけです。ところが、少し後になって中国(どの時代かは不明ですが)から来た書物に「石竹」と書いてあるのを発見して、それ以来「セキチク」と呼ぶようになったのではないかと思われます。
「セキチク」は中国産ですが、「新牧野植物図鑑」には「オランダセキチク」という花も載っています。ヨーロッパや西アジア原産の花で、江戸時代に渡来したとあります。その当時交易のあった「オランダからやって来た」ので、その名になったのです。この花は今では「カーネーション」と呼ばれています。「カーネーション」は江戸時代には、すでに日本にあったのですね。母の日のイメージがありますから、昭和の時代にやって来たものと思っていました。
女性に対して「大和撫子」を使うようになったのは、平安時代あたりの書物が始まりだったように記憶しています。今、検索をしてみましたが、うまくヒットしません。記憶違いでしょうか?他に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのもありますが、私には理解しがたい表現です。花と人を対比させる感覚がよく分かりません。「立てば芍薬〜」の場合は、花がつく(咲く)高さと実際の人の顔の高さを対比させた言い回しだとは聞いたことがありますが‥‥。そうそう「タミさんは野菊のような人だ」なんてのもありましたね。いずれにせよ人を花に例えるのも、そこに特定の花をチョイスするのも個人の感性であって、万人が同じ感性を持っているわけではありません。これは文句を言っているのではなく、逆に困っているのです。こうした言葉を使う人も受けとる人も、そのような共通した感性や情緒を持っていると、私は解釈しています。どのような感性が「ナデシコ」から日本女性の理想像を見出しているのでしょうか。まったく見当もつきません。「昔から言われているから」という理由だけで、分別のある大人が支持しているとは思えませんから。ですから私にはその感性や情緒がないのだ、と諦めるしかありませんね。でも、これらの表現はフェミニズムの立場からするとどうなんでしょうかね。抗議があったとは聞いたことはありませんから、問題のない表現なのでしょうね。とりあえず「褒めている」「褒められている」とお互いが了承しているわけです。だからといって「ヤマトナデシコ」に日本の女性のあるべき姿を重ねるのは、ずいぶんと強引だなと思わずにはいられません。野生の「カワラナデシコ」を実際に見て、評価しているのでしょうか。

「ムシトリナデシコ」は時折見かけてはいました。色が鮮やかで、いかにも園芸種という感じがしますのでの、誰かが種を蒔いたのだろうと考えていました。とっくに日本に帰化しているとは思いもしませんでした。

日本では「ピンク」を「桃色」と表現することがありますが、ヨーロッパでは「ナデシコ」の花の色を指すそうです。

写真:zassouneko(「カワラナデシコ」の写真は無料画像サイトから)
追記&訂正(2015.12.24)(2016.2.6)タイトルを変更し、文章を追記・訂正しました。
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