忍者ブログ

雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

ゴーヤ、ニガウリ、ツルレイシ/どれが正しい名前なの

ゴーヤ(?)ニガウリ(苦瓜)ツルレイシ(蔓荔枝)/ウリ科/ニガウリ属
熱帯地方原産の栽培種(帰化種) つる性の1年草 花期は5〜10月

日本には17〜18世紀頃に渡来したと考えられている。その時代、九州などでは食用としていたらしいが、その他の地方では観賞用だったようだ。この植物のどこを鑑賞していたのかわからないが、凸凹のある実の部分が珍しかったのかもしれない。少し変わった植物を育ててみたくなる気持ちは今も昔も変わらないようだ。

日本全国「ゴーヤ」で通じる
「ニガウリ」は「苦瓜」と書き、中国でも「苦瓜」と書く。「苦い瓜」と書くところが微妙な表現だと思う。実際に食べれば当然のように苦いのであるが、人に害を与えるわけでもないので、全く食べられないというわけではない。それがどうしても利用できない植物であるなら、悪口のような名前が付いたりするが、漢方薬(解熱などとしての利用価値があるので、一応は 悪意を感じさせない名前に落ち着いたのだろう。「苦瓜」は沖縄の方言では「ゴーヤー」と呼ぶが漢字は分からない。中国語で「苦瓜」は「クーグア」と発音するそうなので、そこから「ゴーヤー」となったのかもしれない。ただし、この説を裏付ける資料や文献などは見つけておらず、ただ適当に言ってみただけですので本気にしないように。そんな「ゴーヤー」だが、今では「ゴーヤ」と呼ぶ方が定着しており「ニガウリ」と呼ばれることは少ない。つまり方言が形をかえて全国区になったのだ。多数の人が認識している名前が世間では優先されるので、今のところは「ゴーヤ」で間違っているわけではない。
ゴーヤはフルーツ?
「ツルレイシ(蔓茘枝)」は「ツル」のある「レイシ」という意味であるが、この「レイシ」とは有名なフルーツの「ライチ(ムクロジ科レイシ属の木)」のことである。ちょっと無理がある命名だと思う。「甘い」と「苦い」じゃ大違いではないか。そんな「ゴーヤ」も収穫しないでおくと、やがて黄色くなり、そのうち下部がはじけるように割れる。その頃には中の実は赤く熟しており、甘くなっているという。露わになった甘い実を鳥などに食べてもらい、ついでに種を運んでもらうのだ。緑のうちに収穫した実であっても、室温で置いておけは黄色くなるそうである(追熟と言う)。興味のある方はお試しあれ。責任は持ちませんけど。ただし、甘いのは実だけであって皮は苦いままであるから注意が必要である。
品種改良と野生化
「ゴーヤ」にも何種類かあり、苦味が少ない品種も作られているという。私事だが20年以上前に1度だけスーパーで買ったことがある。それ以来、見向きもしない理由は皆さんにも心当たりがあると思う。サンマのはらわたは大丈夫であるが、ゴーヤはダメだった。それはともかく、上の2点の写真は1年前の9月の中頃のものである。今年も見に行ってきたが立派に実っていた。南向きのお寺の駐車場の入り口にあたる場所なので、毎年、種か苗を植えているようだ。下の写真は別の場所で今年の10月頃のもの。ずいぶんと弱々しい感じがするし、季節的にも遅すぎる。他に植物が植えられていないことから、どこからか種が運ばれてきたのだろう。

「ゴーヤ」と「ジュラシックパーク」
今、売られている「ゴーヤ」をはじめとする、ほとんどの苗や種は「F1品種」と呼ばれるもので、これは「雑種第一代」という意味になる。つまり、その苗や種から育った植物は優れた性質(味、見た目、収量)を持っているが、その優良な植物から出来た種を育てても平凡な植物にしかならないということだ。いい作物を作るには毎年苗を買わねばならないのである。そうでないと、種苗会社の利益にならないからだ。こうした理由から前述した駐車場の立派な「ゴーヤ」は、新たに植えたもので、貧弱な方は「第二世代」のものだと判断したのである。だが、自然の力を甘く見てはいけない。生物はどんな変化をするのかは予測がつかないものである。 それは 映画「ジュラシックパーク(1)」のメインテーマとも言える部分でもある。今では人々は夏前になると、こぞって「ゴーヤ」を植える。それは新しい品種が突然に生まれる可能性を増やしているということでもある。来年の春になると、あなたの庭の片隅から植えた覚えのない立派な「ゴーヤ」が生えてくるかもしれない。それは新たな帰化種の誕生でもある。それをどうするかは、あなたが決めることである。
写真:zassouneko
PR