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雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

ノボロギク/何だか力(りき)んでいるような

ノボロギク(野襤褸菊)/キク科/ノボロギク属(キオン属)
ヨーロッパ原産の帰化植物 1年草 背丈は30cm以下 花期は年中

明治時代に渡来。非意図的侵入との記載があるので商品の詰め物(梱包材)か飼料などに紛れ込んでいたと思われる。1884年に公式に帰化を確認。寒帯〜熱帯に生息出来るので、今や世界中に分布している。なかなかの強者である。

名前の由来は「野に咲く襤褸(ボロ)菊」であるが「ボロギク」自体の存在が怪しい。と言うのは「ボロギク」は「サワギク(沢菊/在来種/多年草)の別名だからである。「サワギク」がなぜ「ボロギク」と呼ばれるようになったか。それは種子の見た目にある。ここでタンポポの種子を想像してもらいたい。ふんわりとした綿毛のような種子が丸い形をつくり、綺麗にまとまっている。乱れている様子はない。ところが「サワギク」は同じような形になるが、綿毛が絡み合い、ずいぶんと乱れた様子になる。それを「襤褸(ボロ)」と表現したのだ。「襤褸」は衣類に関する形容詞だ。乱れ、ほつれている様を表している。今なら「ダメージジーンズ」の、特に穴の開いた部分をイメージすれば分かりやすいかもしれない。

話は変わるが、コンピューターで文字入力が出来るようになって助かったなと思うのが漢字入力の部分である。特に「襤褸」なんて文字は手書きする機会がそうそうあるとは思えない。そもそも「襤褸」を「ボロ」と読むこと自体、ただの当て字である。通常は「ぼろ」で済む。実際、ファッションとしての「ボロ(ダメージ)」を除いては、もう我々は「ボロ」を目にすることはない。ここで唐突だが20年程前に嫁さんが経験した話を紹介する。その当時、嫁さんはいわゆる「バックパッカー」で中国などのアジア諸国をフラフラと回っていたそうだ。格好は当然下はジーンズで、大きなリュックを背負うスタイルである。そうやってインドをウロウロしていた時に降りる駅を間違えてしまい、仕方なく走り出した列車から飛び降りたことがあったそうだ。その際にころんでジーンズが少し破れてしまったという。そのまま旅を続けたのだが、別の列車に乗る際の待合室(2等寝台車)で、インド人(当然周りはインド人ばっかりなので)の女性に「そんな破れた粗末な衣類はみっともない。着替えろ」と注意されたそうだ。その当時のインドでさえこの認識である。
「ノボロギク」の一見不自然に見える葉っぱが気になる。それに植物全体に「捻れ(ねじれ)」の力学が作用しているような印象を受ける。螺旋に沿って上昇していくような微妙な力(ベクトル)を感じる。何だか力んでいるように見える。それにクリスマスに飾る「柊(ヒイラギ)」のイメージもある。まあ、あくまでも個人的な感想であるけどね。そもそも「襤褸( ボロ)」と呼ばれる外見的な欠点など人の主観にすぎない。なぜか気になる草である。

同じ仲間の外来種に「アレチボロギク」というのがあるそうだ。「荒地」+「襤褸」+「菊」である。ワイルドの中のワイルドである。なかなか面白そうだ。さっそく調べてみることにするが、なぜだか画像がほとんど無い。見つけたのはたったの1件。しかも個人のブログである。ブログ主の知識に驚嘆する。こうなると「ネットは広大」とも言えなくなる。関心の薄いものはUpされないのだ。まあ英語が理解できれば世界がもっと広がるのかも知れないが。

それにしてもたかが雑草ではあるが、新参者(帰化植物)に対する記述は植物学的なものを除くと、ほとんど見当たらない。人との関わりが薄いので仕方がないともいえる。つまり身近な植物としての新たな歴史(七草とか菖蒲湯とか茅の輪くぐりなど)を作るのは、これからの我々にかかっているともいえる。だが我々には、それ(帰化種)を拒絶(根絶)するか、受け入れるかのコンセンサスに欠けている。宗教の影響もあると思うが、いわゆる殺生を嫌うのでどうしてもなしくずしに放置する傾向にある。つまり判断を保留し続けるという悪癖が見受けられるのだ。そうしているうちに帰化種によって絶滅してしまう種もあるのだ。帰化種を持ち込んだのは人である。無関心にも程がある。まさか守るべき自然は遠く離れた国立公園の中にだけ存在しているとでも思っているのだろうか。それとも大きくて目立つ珍しい花以外には関心が無いのだろうか。そのあたり(外来種に対する姿勢)を華道や茶道の人達に一度意見を伺いたい気がする。長年、「道」を究めんと精進する人の自然に対する考え方は参考になるはずだ。まあ身近にそんな人はいないのであるが。

追記:2015.08.26「ノボロギク/人は寛容を装い責任を逃れている」よりタイトルを変更しました。内容にふさわしくないように思ったからです。また文章を少し変更しました。
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