「どうしてこうなってしまったのか‥」
アヤメ科アヤメ属の長老「ヒオウギ(Iris domestica)」は深いため息を吐いた。一族の統制がとれておらず齟齬が生じている。騒ぎが収束する気配はなく混乱は増すばかりである。このような事態になった原因には心当たりがある。それは「ヒオウギ」の呼称を軽く扱った結果なのだ。自ら招いた災難という側面もあるのが歯がゆい。「ヒオウギ」はまた一つため息を吐いた。
「ヒオウギは古来よりの名家であるぞ」
沈みがちな気分を振り払うかのように「ヒオウギ」は高らかに宣言した。彼がそう自負するのには理由がある。「ヒオウギ」とは「檜扇」と表記し、檜(ヒノキ)の薄板で作られた扇のことをいう。彩色や装飾がほどこされ、宮中では欠かせない小道具の一つである。後年、紙の扇が作られるようになったが「あんなものは格が落ちる」と思っている。紙で作るのは安易な代替品の扇である。現在まで残っている絵巻物などに十二単と並んで描かれている扇は檜扇ではないか。檜のかぐわしい香りは紙にはない。また、「ヒオウギ」の種を「射干玉(ぬばたま)」「烏羽玉(うばたま)」と呼ぶ。この「ぬば」とは古来の言葉で黒を指す。和歌で「ぬばたまの」とあれば「黒、髪、夜」と続く枕詞である。もうお分かりだろうが我が名は千年の歴史があるのだ。
「混乱の始まりはいつだったのか‥」
「ヒオウギ」は古い記憶を探ってみた。そうだ、最初は「ヒオウギアヤメ(Iris setosa Pall)」だ(写真はありません)。花の色(こちらはオレンジ色、むこうは紫色)や形(「ヒオウギ」は冒頭の写真参照。「ヒオウギアヤメ」はいわゆる「アヤメ」の花の形である)がまるで違うのだが、葉はよく似ている。両者とも古来より日本に住んでいる顔馴染みだし、同じアヤメ属であることから名前の使用を許可したのだ。これぐらいは許されるだろう。
「さて、次は誰だったろうか」
近年になって異国の花が多く入るようになった。これは我々が止められるものではない。そして仲間が増えると、それにつれて付き合いも自然と多くなるのだが、入れ替わり立ち替わりやってくる新参者をいちいち覚えてはいられない。だから記憶が曖昧になってしまうのだ。「そうだ。ヒメヒオウギアヤメ(freesia laxa)だ」。
この名前は「小さな、可愛らしい(ヒメ=姫)ヒオウギアヤメ」という意味だが、花の色や形は「アヤメ」に似ておらず、むしろ「小さなヒオウギ」といったほうがいいだろう。それならいっそ「ヒメヒオウギ」という名前でもよいのでは思ったが、いかんせん属が「フリージア属」ということもあり、「ヒメヒオウギアヤメ」という名に落ち着いた。今思えばここで何か手をうっていたらと悔やまれる。「ヒオウギアヤメ」と「ヒメヒオウギアヤメ」も属が違うのだし、両者は葉しか似ていない。「葉が似ている」といってもアヤメ科の葉はほとんどがこの形なのだ。それでも一族の名前の祖「ヒオウギ」の葉の見事さには誰も及ばない。その慢心が油断となり、結果として「ヒオウギ」の名を乱発することにつながってしまったのだ。