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雑草探偵団

おっさんの雑草観察記です。花がどうとか生態がどうしたとかの科学的な興味はあまりありません。興味があるのは歴史や名前です。人との関わりや何でその名前になったのかに興味があります。その辺りを想像や仮定を交えながら書いています。個人の勝手な妄想のようなものですから、あまり信用してはいけません。また、このサイトはライブドアブログとミラーサイトになっています。何かあった時のバックアップです。

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ヒメクグ/神話の世界へようこそ/その3/エピローグ/2018.8.18

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ヒメクグ(姫莎草)/カヤツリグサ科/カヤツリグサ属
在来種 多年草 花期は7〜10月 草丈は10〜25㎝

若い頃に「サンカ」という近代の漂泊民を題材にした本が話題になったことを覚えている。と言っても、サブカル系の雑誌で何度か取り上げられているのを読んだだけだが。今、調べたら1965年に出版されていた。私が覚えているのよりはずいぶんと前のことである。第2のブームでもあったのだろうか。

だが、しばらくしてこの本は著者の創作だったということが発覚したという。不適切な情報や写真を多く使っていたらしい。昔、神田の古本屋でこの本を見かけたことがある。当時はまだ創作だとは知らなかったが、売値が3千円ぐらいだったので話題の本にしてはずいぶんと安いなと思った記憶がある。買わなかったけど。

この文章を書いている途中で、不意に頭に浮かんだ言葉がある。それは「木地師(きじし)」だ。「木地師」とは轆轤(ろくろ)を回し、特殊な刃物を使って木の塊から椀やお盆を削り出す技術を持った職人たちのことだ。その昔、彼らの多くは漂泊民だったという(今、検索して知った)。琵琶湖の東の山中を発祥の地とし、天皇の勅許(疑問があるが)をもって、各地の山奥を転々とし作業をしていたらしい。その地で彼らは近在の農民から差別を受けていたという。まあ、これは分からんでもない。村の共有財産である山に勅許を振りかざして侵入し、良質な木を伐採してしまうからである。ところが木地師の方でも農民を差別していて、彼らとの婚姻は禁止されていたという。天皇勅許を持つという自負心がそうさせたのだろうか。

そうした「木地師」たちであったが、明治に入り、近代化の影響を受けることになる。戸籍制度、選挙権、納税、徴兵、また機械化による大量生産などの波を受け、徐々に数を減らしていった。

以前、旅行で松本の東(上田市の西)にある別所温泉に向かう際に、奇妙な石仏群で知られる修那羅峠(しゅならとうげ)の神社に立ち寄ったことがある。社殿の間を身を低くして通り抜けると小高い山の中腹に出る。その山肌にある小道に沿うように、広い範囲に渡って石仏が点々と置かれている。話によると800体ほどあるそうだ。お地蔵様や狛犬のようなものを始め、まったく正体が分からないものまである。通常見かけるような石仏だと思って見に行くと面食らうだろう。ここはご利益を期待して行くような場所ではないと思う。

修那羅峠は高速道路のサービスエリアに置いてある広域の地図にも載っているので興味のある方はどうぞ。その場合、松本から向かわずに長野自動車道の「麻績(おみむら/そうは読めん!)インター」あたりから南下する方がはるかに楽だ。松本から行くと山道、峠道ばかりで運転が大変なのである。大変な思いで車を走らせて、「こちら修那羅峠」の看板を指示通りに左折するといきなり道が広くなる。センターラインもある道だ。思わず「なんじゃ、こりゃ」と腹が立った。今までが腹が立つほどの山道だったのだ。
追加情報:その道沿いに駐車スペースがあるが、それを使わずに神社に向かう道を車でそのまま登って行くと、鳥居のすぐ近くの駐車場に着く。
教訓:名古屋から別所温泉に行くのに松本から向かうのは無謀である。中央道を岡谷で降りて北に向かうのが正解だ。

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石仏の一部。

観光の思い出話になってしまったが、これから「木地師」が出てくるのでご容赦を。その峠から別所温泉に向かう途中に「木地師の里(だったような気がする)」を通った。そう書かれた看板がいくつもあったのだ。今もあると思うが。物産館のようなものがあるのかと思ったが、道沿いにはそれらしい建物が見当たらない。気付かなかっただけかもしれないが。今、「木地師の里」で検索してみると、南木曽や前述した琵琶湖近辺の近江のことばかり出てくる。目の錯覚ではないと思うが、検証ができないのは困るなあ。

中世(平安中期)の頃より、人形を生きているかのように操る見世物が人気を博した。その演者達を、彼らが背負っている植物の袋(クク)から「クグツ(傀儡)」と呼んだ。使われる「木偶(でく)人形」は「傀儡子(クグツの子)」だ。その「傀儡」達が使った人形を今でも見ることができる。常設展示かどうかは不明だが、九州の数ヶ所のお寺で保存されているという。

さて、「傀儡」が登場してから数百年後、江戸時代に入って人形浄瑠璃が登場した。人形使いが技術を洗練し、現代まで残るような優れた芸能へと進化させたのである。この人形浄瑠璃は各地に残っており、その多くは国の重要無形民俗文化財に指定されている。中でも文楽はユネスコの無形文化遺産に登録(2009年)された。
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「安乗(あのり)の人形芝居」。三重県鳥羽市阿児町安乗の人形浄瑠璃。無料画像サイトより

最後に。
「ヒメクグ/神話の世界へようこそ」は、KADOKAWA 「怪」第52号に連載中の荒俣宏氏の自伝「妖怪少年の日々」を参考に書いております。けれども、理解不足のため内容を正しくお伝えできていないかもしれません。お詫び申し上げます。また、素人にありがちなことですが、自分の思いつきを、さも周知の事実であるかのように述べている可能性もあります。お許しいただきたい。

写真:zassouneko
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